昨日は長年の友人と遊びに行きました。
彼女は心身共に不調な時期が長く、金銭的余裕も無い生活をしているのですが、家庭菜園や作り置き料理を楽しみ、ジャニオタ活動で友達を増やしてそれなりに楽しく暮らしている、と思っていました。
今回は私が思い悩んでいたので誘ってくれたのですが、友人も最近また心療内科に通い出したり、カウンセリングに行っているそうです。
お互い性格は全く違い、私は強気に見えて気弱、友人は穏やかで控え目に見えて自己肯定感の強いタイプです。
悩みを話していて気付くことがお互い色々ありますが、私が
「色々と嫌なことはあるけど、自殺をしようって思えないんだよね。
この間Twitterで山奥のトイレで首吊りロープを発見した人のツイートが話題になってたけど、そんな風に1人で山奥で死ぬなんて怖すぎる!
自殺の名所みたいな所に行くのも怖いしさ」
と話すと、友人が
「この間、初めて本気で死のうとして、分かったことがあったんだ」
と語り出しました。
友人は先月、今の職場環境が変わることが発表され、転職するか移転先までついて行くかの決断を迫られて憤慨していました。
「今の環境にいつまでもいられないとは思っていたけど、そのタイミングは自分で決めたかったのに、急にその時が来たから納得がいかなかった。
で、いつものように仕事に行って、歩いていた時にふっと
『あ、そうだ、死のう』
って、すごくカジュアルに思って、そのまま飛び降りとかしそうになったの。
自分でも『あれ?なんかおかしいな。とりあえず家に帰って寝よう』と思ったんだけど、布団に入っても全然眠れなくて、それで病院に行ったら
『まぁ眠れなかったらそれはそれで、横になってカラダを休めるだけでも良いんですよ』
って言われて、とりあえず眠剤もらって寝て、起きたらスッキリ元気になったんだけど、でもあんな風にカジュアルに本気で死のうとしたのは初めてだったなー」
と言われた時の私の気持ちは、言葉では書き表せません。
よく「死にたい、と言う人は本当には死なない」と言います。
躁鬱病のような人は「俺は空を飛べる!」と躁状態の時に飛んだりするとか、
「あ、天気良いな、そうだ死のう」
って感じで実行する人がいる、という話は聞いたことはありましたが、鬱々と思い悩んでいる時は、死の準備をする元気さえ無いものだなぁと思っていました。
以前
でも書いたことがありますが、実際に自殺を実行するというのはとても面倒くさいことだと思えます。
先日知人の精神科の先生も
「自殺を実行しようとして成功した人、ほとんど見たことないよ」
と言っていました。
(ちなみに上記のメインブログの記事は結構定期的にアクセス数が多くて、それだけ悩む人が多いんだな…と実感しています…)
以前も友人とこのことは話したことがあり、その時は友人も
「だよねー病んでる時は布団から出ることも出来ないから、自殺の準備なんか出来ないよね」
と言っていたのに、今回は本当にカジュアルに死のうと本気で行動を起こしかけたなんて…
「もうね、全然普通に、ご飯食べようとか、そういう感覚と同じ感じだったよ。」
と言うので
「そういう話は聞いたことはあるけど、本当なんだねぇ」
と返しつつ、つい最近そんな状況に友人がなっていたことに心がついていけませんでした。
私たちはそういう時に
「死んだらダメだよ!私はそんなことになったら悲しくて辛いから止めて!」
なんてドラマのように熱く語る関係ではありません。
長年の友人だからこそ、その時々のお互いの感情を聞き入れつつ、自分なりの意見を言い、笑い合う関係です。
友人が心身共に不調を抱えていることについては、これまでも何度も色々と話していて、お互い分かる部分と価値観の合わない部分がハッキリと分かれるのですが、でも「どちらが正しい」ではなく「そういう考え方もある」という受け止め方をするようになっています。
アラフォーになると、そんな感じで正論や自己流を押し付け合わないのが居心地いいものです。
死にたくなる友人の気持ちは分からなくもないけど、でも実行はしないと思っていました。
リアルにそういう状況を想像したことがなかったんです。
話題としてはかなり重たいものですが、友人は普通にやはりカジュアルに話してくれていたので、私も深刻では無い風に受け止めたフリをしました。
仕事が不安定でお金が無く、でも趣味にたくさんお金を使ってもいるし、心身の不調でも通院費が嵩み、友人の立場なら「死」を考えてもおかしくない、のかもしれません。
でも、思い悩んだ末ではなく、カジュアルにフラッと死なれたら、友人としてはもうどうしようもありません。
最近「宗教を心の拠り所に出来る人は、楽で良いね」ということについて色々話した時がありました。
私は神道系が好きですが、日本には八百万の神様がいて、どの宗派やどの神社に絞って1つを信仰する気持ちにはなれません。
これまでも色々な神社仏閣には行きましたが、私は御朱印集めもしないし、観光がてらあちこちに行き、お願い事も叶わないなーくらいの気持ちでいます。
そもそも五穀豊穣をお願いしたり、鎮魂の意味で作られた神社が多いので、この宗派のここだけ信じて毎日祝詞を唱える、というようなことはイマイチピンときません。
友人はどちらかと言えば仏教的なモノや瞑想等は合うけれど、その為に煩悩を捨てたりは出来ないようです。
今回色々友人なりに考えた時に、過去に私とニコライ聖堂に行った時のことを思い出したそうです。
東京復活大聖堂教会(ニコライ堂) | 日本ハリストス正教会教団 東京復活大聖堂教会 オフィシャルサイト
その時は偶々お散歩ついでに行って、ミサの見学をさせてもらったのですが、カシャカシャと香炉のようなものを振って信者の方々に振りまく様子が素敵で、講堂内は良い香りに包まれていました。
「あれ良かったなーと思って、信者になるのはどうかなーと思って調べてみたけど、結構大変みたいだからやっぱり無理だと思った」
と言うので
「まー偶に見学をさせてもらうくらいで良いんじゃない?」
と軽く話しながら、でもあの時の経験がそんなに友人の心に深く残っていたことにも驚きました。
付き合いが長いだけあって、私と偶々行った場所や、話したことがフッと彼女の心を過ぎり、ターニングポイントになることが度々あったそうです。
それを聞くと、より一層、友人が本気で死のうと考えたということに、どう反応すべきかな?と一瞬悩みましたが、でももうそれはそれでタイミング等もあるから、私はいつも通りに、ただの正論や社交辞令で流すことだけはしないでおこうと思いながら長時間語り、笑顔で別れました。
まぁもう宗教でも何でも、彼女が自殺をしない方向に行く何かを見つけるなり、今のまま自分のペースで暮らし続けてくれたら良いのですが、そういう時に助けを求めてもらうことも出来ないんだなぁと思うと寂しくなります。
「そうだ、死のう」と思った時、友人は「死にたい どうしたら良い」と検索をしたら、いのちの電話のようなサイトがヒットしたそうです。
でも、私はそれは友人には当てはまらないケースに思えます。
寂しくて誰かに話を聞いて欲しいわけではなく、現実的に彼女の環境を改善出来る奇跡が必要に思えるんです。
今日の友人は明るく元気でした。
色々話せて、私も元気を貰えました。
楽しい話題もたくさんありました。
それでも私の心の中には、彼女がつい最近、本気で死のうと考えたんだという事実が、どことは言えない心の一部に深く残りました。
とりあえず、話してくれて、そして実行しないでくれて良かったと思います。
死のうと考えた後に、友人は
「そうだ、私はもたいまさこのように生きるんだった。まだ私はまさこになれてない」
と思ったそうです。
これも私が以前
「このまま、ドラマや映画でもたいまさこが演じてるような感じで、日常をのほほんと楽しんで暮らすおばあちゃん的存在目指してるの?」
と笑いながら言った過去があるからです。
独身で、自分なりのオシャレなライフスタイルで穏やかで面白く日々を過ごす、もたいまさこのような感じは良いな、と思っています。
ギャルソンみたいな服や、個性的な古着ファッションとか、ガーリーな感じとか、そういう感覚も素敵。
今、友人はそんな、もたいまさこのようになれる老後を過ごしたいなと思いながら、余生のような生活を楽しんでいると笑っていました。
うん、そんな風にこれから何十年と、友人が過ごしていけるなら、私はそれが良いなと思っています。
友人は恋愛や結婚には全く興味が無いので、そういう生活が出来たら素敵な気がします。
その為にも、必要最低限は働いて稼ぎながら、色々楽しんだり乗り越えて欲しい。
友人も私にはそれなりに満足して暮らして欲しいと思っているでしょう。
この先何があろうと、友人がまたカジュアルに「死のう」と思って、そしてそれを実行してしまって欲しくない。
その為に自分が何を出来るかは分からないけれど。
私も私のことで精一杯だけど、でも、この上更に大事な友人まで最悪な形で失いたくないな、と心から願っています。
今回は友人が自分から心療内科に行って対処してくれたから良かったですが、そういう病院に行くことに抵抗がある人でも、こういう市販薬もあるので、一度こういうのを利用して様子見をしてみたり、友達がそうなっていたら勧めてみたりして下さい。
「あなたが自殺したら悲しむ人がいる」
なんて月並みな言葉は、きっとそういう状況の人には響かないから…
それでも何か出来ることをしてみて、その上で一旦冷静になってくれたら良いなと思います。