元旦夕方から牡蠣に当たって熱を出していましたが、30時間後には平熱に下がり、更に寝て起きた今は完全復活しました。
寝正月にも程がある寝正月になっちゃった。
さすがに38.5度以上あると本を読むのもテレビを観るのもキツく、でも寝すぎたからか熱で関節が痛いのか腰が痛くて何も出来ませんでした…。
以前ならこういう時には友人達に
「死んだ時に気付かれないと困るから、明日こちらから連絡が無かったら親に電話をして欲しい」
とLINEしていたのですが、今回はしませんでした。
プライベートアカウントのTwitterには呟いたけど、そちらは繋がっている人が少ない上に、友人達は趣味や仕事のツイート専用として大勢の人と繋がっているので、多分気付かれていません…
数年前までは、私は自分からメリクリとかあけおめとかのメールやLINEを友人達に送るタイプでした。
寂しくて誰かと繋がっていたかったんでしょうね。
でも今年は自分からは誰にも送らず、Facebookには新年の挨拶兼牡蠣にあたったと書いておきました。
同僚や親戚や高校時代の先輩から心配の声を頂きました。
また、以前同じ職場にいて、今でも時々会う年上女性と、小中学時代の友人からはご挨拶LINEが来ました。
年上女性には返信しましたが、小中学時代の友人は3人のグループLINEで来て、内容が自分の娘のことと、もう1人の友人の娘のことを質問する内容だったので、私は既読だけつけて返していません。
もう1人の友人が返してからで良いかなーと思って…。
年賀状はもう何年も自分から出していないのに、律儀に送り続けてくれる高校時代の友人がいます。
この友人と共通の友人と仲違いしたため、私としては「もういいよ」と言いたいのですが、変わらず送ってくれるので、どうしたものかと思いながら早7年くらい経っています…
どんどん成長していくお子さんの写真は微笑ましいのですが、きっともう会うことは無い…
最近は自分のことはほとんどブログに書いてしまうので、わざわざ友人達に伝えなくても良いかなーと思うようになってきた気もします。
特にコメント欄でやり取りを頻繁にしていないので、新田真剣佑の鍵付き掲示板の方で安否のコメントを頂いたくらいなのですが、気持ちを書くだけでもなんか気が済んでしまうようになりました。
好きな異性がいる時は、体調不良の時心細く感じたり、気にして欲しいと思ってしまったりするけど、そういう相手がいない時は、心細さも特に無いものですね。
1人で高熱を出し、好きな人から素っ気ない態度を取られて更に落ち込む、とかも昔あったけど、そうなるくらいなら誰も頼らない方がマシだぜ…
誕生日とかクリスマスとか新年とかに対する気持ちも、去年からグッと関心が無くなりました。
昔はあんなに「一緒に過ごす人がいないのは寂しい」と思ってたのに。
世間的にも「クリスマステロ」とか言って、「誰かと過ごさないのは寂しい人、という価値観が辛い」という声が上がるようになり、「だよね!」と賛同の声がSNSに流れるようになったのが背中を押してくれています。
「1人でも平気」とまでは思わないけど、「1人で過ごすしかない」という人は自分だけじゃない、と知ることが出来たのは、SNSのお陰かな。
ので、自分なりの気持ちを書き、同じ気持ちの人がホッとしたり、「こうはなりたくない」と思ったりしてくれたら、それを自分は知ることがなくても、まーいいかな、と思ってます。
アクセス数で何人に読まれているかは分かるので…
牡蠣にあたった話は結構アクセス数が多くて、同じように牡蠣にあたった人がいるのか、常連さんが読んでくれたのか分かりませんが、「私が牡蠣にあたってるリアル実況を知ってる人がどこかにいるのねぇ」と思ってました。
いやマジで、冷凍牡蠣は加熱をシッカリしないとヤバイですね…
ということで、新年早々に牡蠣にあたって高熱を出しながら、どんどん「寂しい」と思わなくなってきている自分に気付きました。
そう思いながら昨夜NHK BSでやっていた短歌の特集番組を観ていたのですが、その中に出てきた青森のお爺さんのお話が素敵でもあり切なくもあったのでご紹介します。
普段あまりBSは観ないのですが、最近は菅田将暉の番組があったのと、満島ひかりの大好きなドラマがあったので観ていて、その予告にこの短歌の番組が出ていて、またInstagramで吉岡里帆をフォローしているため、放送時間に思い出して観てみました。
私は生田斗真も吉岡里帆も好きなのです。
平成の短歌を紹介する番組で、やはり孤独について詠む歌が多いなぁと思いました。
その中でピックアップされた青森のお爺さんは、元々は農家をやっていたそうです。
若い頃から短歌を書き、念願だった宮中行事にも出席したことがあるとのこと。
この宮中行事は10人しか参加出来ない狭き門だそうで、こんな田舎の農家のお爺さんが選ばれるってスゴイ、と思いながら観ていました。
一人暮らしの様子が紹介されていましたが、子供たちは成長して家を出ていて、奥様は数年前に施設に入ったそうです。
一人では農家を続けていくのが難しく、少しずつ畑を売って規模を縮小し、ついに全ての土地を手放し、今は庭先の菜園のみ手入れをしているのだとか。
先祖代々の土地や家は、自分がいなくなったら無くなってしまう、という虚しさを短歌にしていました。
こう言ってはなんですが、結婚して子供を持っても、仕事を頑張って、趣味も楽しんで夢を叶えていても、一人で老後を過ごしている人はいるんだな、ということに改めて気付きました。
そして、その気持ちを短歌にすることで、それをこうしてテレビを通して他の人達に伝えることが出来る。
文字と媒体でそうやって他者と繋がることが出来るのって、良いなと思いました。
お爺さんは今は一人だけど、でも過去には奥様と焼畑を眺めていて、それを短歌にしている。
そういう記憶を美しい言葉に残せるのも素敵。
私には短歌は詠めないし、駄文しか書けませんが、稲葉浩志さんがあの素敵な顔と声で自分の思いを歌詞に書いて歌っているのを聴いて育っているので、そういう「言葉」と「感情」というものに憧憬があります。
「言葉」は誰かと繋がりたいと思ったり、ただ自分の気持ちを書き残したくて使うもの。
あけおめーとかメリクリーとかは、伝えたい相手が限定されているものですが、そういう限定した相手以外に言葉を伝える手段として、SNSがある。
今はもう特定の「誰か」と繋がりたいと強く思わなくなってきていて、でもそれでもこうやって気持ちを書き残している時点で、私もまだ何か繋がりを求めているのかも。
と、病気はかように少しアンニュイな気持ちにさせてくれるものでございます。
なんて書いておきながらも、無事熱が下がったので、今日は友人と娘ちゃんとプラネタリウムに行ってきます!
「もしかしたら行けないかも」
というのは昨日の朝伝えていたのですが、先程熱が下がったので行けると連絡をしたら
「娘もよかったねーって言ってるよ」
と返ってきて、ニマニマしました。お年玉用意しなきゃ。
友人の娘ちゃん、めちゃくちゃ可愛いのですよ。普通に子役の女の子より可愛い。
自分自身のことより、他者のことを、見返りを求めずに考えるようになる、という感情を、友人の娘ちゃんを通して知りました。
実の子供なら、もっとこうなって欲しい、とか色々考えてしまうかもしれませんが、他人の子供なだけに無責任にただただ彼女を笑顔にさせることを考えてしまいます。
今更ながらに、そんな風に思えるようになることが、私の成長でもあるのかな?どうでしょう?
元彼と別れ話をしたのは元日だったので、何年も元日は孤独感が強くて寂しく思っていました。
だからこそ、ここ数年は元日にこの娘ちゃんたちと会っていました。
今年は元日に会えなかった分、寝込んでいて元彼との別れ話を思い出すどころではありませんでした。
まー時間もかなり経ったしね。
新田真剣佑と弟の郷敦くんのお正月Instagramストーリーを観てホッコリしておりました。
こんな素敵な顔した兄弟欲しい…
ってか、この記事のタイトル「兄弟」が「兄妹」になってたのに今気付いて直したんですけど、結構アクセス数多かったのに、誰も指摘してくれなかったのね…?
今年は誤字脱字に気をつけたいです…
他者に関心も無く、自分自身にも関心を持たなくなるのが、一番良くないことのような気がします。
他者に関心を持つことで、自分自身にも関心を持てるかな、私は。
もちろん自分自身にしか興味が無い人もいるかもしれませんが。
短歌のお爺さんみたいに、ブログはどこかコンテストに出せるものではありませんが(コンテストはあるにはあるけど、物販メインでやってることが評価されるコンテストなので私のブログは対象外)、こうやって気持ちや興味を持ったことを書くことで、自分の中の何かが成長していける人生になれば良いなぁ、そうなる一年にしたいなぁ、と思います。
「孤独とか全然感じない〜一人でも全然平気〜」
とか言える人になりたいとは思わないので、
「一人でいるより、この人といる方が楽しい」
という人とは出会いたいし、一緒にいられたら良いなという野望も捨てずに、今年も(は?)がんばります!